宇治抹茶と宇治の茶摘み

簀下十日・藁下十日という茶の芽の成育期間がすぎると、いよいよ宇治の茶摘みである。

三月初旬、御茶摘初の事、御茶師方日を撰式あ り、摘初の御茶其日に製し、所司代に宇治抹茶献上ありと記されている。徳川将軍家の御用第一と心掛けていた当時の有様が、よくわかる。 紙付の躰、摘べき株を見別、家々の印を付、日 限を別る也と見えるのは、宇治抹茶の株それぞれの発芽時期に遅速があるため、毎朝、茶師が宇治の茶園を見まわり、製茶に最も適した芽の状態を判断して、その株に絵符をつけてゆく作業である。茶摘み女たちは、絵符がつけられている株の茶の芽のみをその日に摘み採るという細心の配慮があったことを物語っている。また、宇治の雨中の茶摘みを描いて、「摘取の図、女ども歌うたふ、雨天にても休事なし」と書き添えてあるのも、芽の伸び加減を重要視していたことが窺える一節である・現在は、雨中に摘んだ宇治抹茶を露芽と呼んで、茶が濁るといい、雨天の茶摘みはなるべく避けるようである。

「茶摘の人数、園移りの躰、歌うたふ」とあるように、宇治の茶園から茶園へ移動するのは当然のことだが、のどかな茶摘み唄の声は、今は聞かれない。野奉行、摘とりし葉を改帳につけ、地銘をしる し、札を入置とあるのは、茶摘み女を統率し、その作業状況を現場で監督する者の仕事であった。多くの場合、宇治茶園の名称が宇治抹茶となって茶事に興趣を添えたことを思えば、重要なことであっだろう。

この巻物には、ここに「茶摘見物の躰」と記して、武家の子女らしい数人の一団が描かれている。名所宇治の茶見物が盛んに行なわれたことを示唆するとともに、この製茶図が茶摘み時期を逸した見物客や、宇治抹茶の購入者への絵解きのためのものであったことをも窺わせてくれる。